スピッツ「猫になりたい」は主役になれなかった名曲

スピッツの「猫になりたい」は、1994年リリースのシングル「青い車」のカップリング曲として世に出た。いわゆるB面曲でありながら、この曲は長い年月をかけてファンの間で“隠れた名曲”として育ってきた。A面になる予定だったという逸話が残っているのも、この曲の完成度の高さと、バンド側の特別な思い入れを物語っている。

それだけに、個人的には今でも不思議でならない。この曲が、なぜテレビドラマの主題歌にならなかったのか。スピッツのヒット曲の多くが映像と結びついて記憶されているのに対し、「猫になりたい」は、あまりにも“物語向き”の楽曲でありながら、その役割を与えられなかった。

この曲を聴くと、決まってある風景が浮かぶ。
都会の春。少し湿り気を帯びた夜の空気。自転車でアパートに帰る道すがら、街灯の下で揺れる若葉。その静かな時間の中で、イヤホンから流れてくる「猫になりたい」は、日常と感情の境目をやさしく溶かしていく。ドラマ的な事件は何も起きない。ただ、誰かを想う気持ちだけが、確かにそこにある。その質感こそ、この曲の本質だ。

〈猫になりたい 君の腕の中〉というフレーズは、甘い告白というよりも、存在の置き場所を探す言葉に近い。言葉で愛を証明するのではなく、ただそばにいることで関係が成立してしまう存在――猫というモチーフは、その象徴として極めて巧みに使われている。だからこの曲は、単なるラブソングではなく、「言葉」と「存在」の関係を描いた詩でもある。〈言葉ははかない〉という一節が示す通り、想いは語れば語るほど不完全になる。その不完全さを引き受けるように、猫という沈黙の存在が選ばれている。

この“解釈の幅”の広さこそが、「猫になりたい」が長く愛されてきた理由だろう。恋愛の歌として聴く人もいれば、孤独と寄り添いの歌として受け取る人もいる。カップリング曲でありながら、スピッツ屈指の名曲と評価されることが多いのは、そうした受け取り方の多層性に支えられている。

そして、この曲の影響は、時代を越えて別のアーティストの作品にも反響しているように思える。スピッツをリスペクトしているあいみょんの「猫にジェラシー」を聴くと、そこに描かれる“届かない場所からのまなざし”や“愛される存在への羨望”が、「猫になりたい」とどこかで響き合っているように感じられる。猫というモチーフを通して、言葉にならない感情を描こうとするその姿勢は、意識的か無意識かは別として、スピッツの系譜の上にあるのではないか。

さらに「猫になりたい」は、ヒットチャートではなく、リスナーの心の中で寿命を延ばしていくタイプの曲――それもまた、この楽曲の美しい運命だろう。

だから改めて思う。この曲は、ドラマの主題歌にならなかったからこそ、逆に“私たち一人ひとりの物語”の中に入り込めたのではないかと。都会の春の夜、自転車で帰る途中にふと聴こえてくる「猫になりたい」。それは、誰にも見られない感情のそばに、静かに座り込む一匹の猫のように、今も私たちの時間に寄り添っている。