ポップの皮をかぶった和歌的宇宙

久しぶりに「traveling」を聴くと、まず耳をつかまれるのは、あの dadaludadalu と重なるハーモニーのイントロだ。理屈より先に、身体が浮き上がる。あれはもう、金曜の夜の高揚感そのものだ。仕事や学校から解放され、これから何かが始まるという予感。突き詰めれば「traveling」は、そのワクワクを3分あまりのポップソングに封じ込めた曲だとも言える。

だがこの曲がただの“週末ソング”に終わらないのは、宇多田ヒカルの言葉の使い方が異様なまでに洗練されているからだ。
とりわけ象徴的なのが、

風にまたぎ月へ登り
波とはしゃぎ雲を誘い

というフレーズである。風・月・波・雲という自然のモチーフが、縁語のように連鎖していく。これはほとんど、万葉集の大伴家持が詠んだ雄大な自然詠のスケール感に近い。恋愛や都市生活を歌っているはずのポップソングが、一瞬にして和歌的な宇宙へと開かれる。

言葉をつかったコラージュアート

そこにさらに、

春の夢のごとし
風の前の塵に同じ

という『平家物語』の無常観を象徴する一節が差し込まれる。重要なのは、宇多田がこれに「深い意味」を背負わせていない点だ。あくまでコラージュとして配置されている。意味を統一しない、思想を説明しない。ただ美しい断片を並べていく。この態度こそが、「traveling」のアート性であり、どこか妖艶で雅な雰囲気の正体でもある。

「クラリ」「チラリ」といったオノマトペも同様だ。これらは意味というよりも、視覚的・感覚的なスパイスとして機能している。言葉でできた絵文字のように、楽曲の中に小さな光やきらめきを散らしていく。

そして、そこに英語が混ざることで、色彩はさらに鮮やかになる。日本語の古典的イメージと、英語のポップな響きが同じ平面に貼り付けられ、まるで雑誌の切り抜きを重ねたコラージュアートのような言語空間が生まれる。

だから「traveling」は、花金の浮かれた気分を歌った曲でありながら、同時に言葉そのものを遊ぶためのアート作品でもある。
高揚と無常、ポップと古典、意味と音――それらが矛盾したまま共存しているところに、この曲の魔力がある。

聴き終わったあとに残るのは、深いメッセージではなく、「ああ、楽しかった」という感覚。だがその軽やかさの裏側には、宇多田ヒカルの恐ろしく高度な言語感覚が静かに、しかし確実に息づいている。