ミスチル「HANABI」で語る街場のミスチル論
自分は無宗教の人間だ。ただもし「心酔している人間を一人挙げよ」と問われれば、迷うことなく「桜井和寿」を挙げるだろう。ミスチルの桜井和寿は神だとさえ思っている。ミスチルの音楽は自分の人生そのものであり、何度となく彼らの歌に救われ、励まされてきたか分からない。
桜井和寿は団塊ジュニアの教祖だ。たとえば、「So let’s get truth」の中でも「我は思想を持たぬ愚連隊です 若きこの世の雑草です 団塊の世代が産んだ愛の結晶は 今日もwalking in the street」と歌っているし、「1999年、夏、沖縄」では「戦後の日本を支えた物の正体が何となく透けて見えるこの頃は 平和とは何か 国家とは何か 家族とは何か 柄にもなく考えたりします」と歌い「時の流れははやく もう三十なのだけど ああ僕に何が残せるというのだろう」と、ボクら世代の目線でメッセージを送り続けていることを言明している。彼らが団塊のジュニア世代に響くのは、偶然ではなく、むしろ意図されたものであり、彼ら自身もそのことを自覚している。特にアルバム「深海」以降の彼らの楽曲は、悩める我々世代の心の支えになってきたことは疑う余地もない。
さて、「HANABI」はそのミスチルの楽曲の中でも好きな曲の一つであり、中毒性の高い楽曲でもある。
「どれくらいの値打ちがあるのだろう 僕が今生きているこの世界に」と現代の世の中を斜に構えた目線で疑問を投げかけ、「ちょっと疲れてんのかなあ」と実はそんなことはないんじゃないかと明るい展望をほのめかす。
桜井の紡ぐ歌詞は、実は「±0」で、一見、厭世的でネガティブな現代社会像を打ち出すが、一方で必ず「肯定」要素が用意されている。ただ、それはあくまで消極的なものであって、積極的に現代社会を肯定はしない。そして、そのバランスがボクら世代の感じている現代への戸惑いや困惑の気持ちをうまくとらえる。
眩しいくらい明るい未来を描かれたら、ちょっと引いてしまう。そんなことないのは分かっているからこそ、輝ける未来を高らかに歌われたら、胡散臭さを感じ、警戒心を抱いてしまうだろう。かといって、現代社会を完全に否定されたら、僕らはそこに生きる意味を見失ってしまう。
桜井が描こうとする未来は、あくまで「果てしない闇の向こう」に存在する「誰も知ることのない明日」(Tomorrow never knows)であって、可もなく不可もない今日以上の明日なのである。「HANABI」の描き出す未来もこの延長線上にあり、非常にバランス感覚に長けた抑制のきいた楽曲でもある。
そして、そのバランス感覚こそ、桜井和寿の才能であるとも見ることもできる。
かつてブルーハーツが「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」と歌っていたように、決して天国ではないこの世の中だけど、たぶん、きっとそんなに悪い世の中でもないよと桜井は僕らを導くのだ。
ただブルーハーツの直截的でナイフのような鋭い言葉ではない。ブルーハーツが見せる世界観とミスチルの世界観には多くの共通点を見出すことができるが、ブルーハーツが扇動的でヤンキーチックで粗削りな印象なのに対し(自分はブルーハーツも大好きだが)、桜井は抑制的であり、そしてどこか懊悩していて、繊細であり自信なさげだ。そのちょっと病んだ感じが、逆にボクらの共感を呼ぶのだ。
「誰もが皆悲しみを抱いてる だけど素敵な明日を願ってる 臆病風に吹かれて 波風がたった世界を どれだけ愛することができるだろう?」という問いかけは、まさにそのことを象徴している。ブルーハーツに「臆病」という言葉は似合わないし、彼らならきっと問いかけではなく断定したメッセージを発するはずだ。ブルーハーツが社会も含めた外側に向けた自己の感情の発露だとすれば、ミスチルの楽曲は自己の内側に内側に沈み込もうとする。
そして、桜井は問いかけることで、僕ら世代を諭し、癒す。
「一体どんな理想を描いたらいい? どんな希望を抱き進んだらいい? 答えようのないその問いかけは 日常に葬られてく」。こうやって、僕らに内省を迫る。
この曲に出会ったとき、特にひかれたフレーズがある。
それは、「考えすぎで言葉に詰まる 自分の不器用さが嫌い でも妙に器用に立ち振る舞う自分はそれ以上に嫌い」という歌詞だ。
不器用と器用の対比。しかし、これは不器用な自分と器用なあいつの対比ではない。あくまで、不器用さと器用さは自己の中に同居したものであり、その自己の中の器用さを否定し、不器用さを肯定することで、僕らを救済へと導くのだ。社会人として「妙に器用に立ち振る舞う」自分に嫌悪し、同時に不器用な自分にも嫌悪しながら、日常を生きているのが僕らそのものだからだ。この「不器用だっていいじゃないか」という消極的な肯定こそが桜井の真骨頂でもある。積極的には肯定されたくない、でも否定もされたくない僕らの内面を絶妙なフレーズで引っ張っていく。
桜井の創り出す楽曲には宗教性あるいは中毒性がある。これはぜひ実際、楽曲を聴いて確認してほしいが、桜井は彼の紡ぎだす魔法の言葉で僕らを内面という暗いトンネルに連れていく。そして、彼はその暗闇に僕らを放置せず、必ず出口まで案内する。この突き抜けるようなトリップを経験することで、ミスチルの音楽に快感を味わうことになる。
ーー暗から明へ。
その明るさは絶対的なものではなく、極めて相対的なものなのだけれど、だからこそリスナーの心を解放する。そしてその心の解放に一役買うのが歌詞中にでてくる「君」という存在である。
この「HANABI」の中の僕は「闇」の中にいる存在であり、その対極に位置するのが「HANABI」の光であり、「君」という希望である。そして、それは闇に葬られた「暗い」僕自身の救済の光でもあるのだ。
この作品名を「花火」にしなかった桜井の意図はまさにその点にあるといってよい。「花火」にすれば、リスナーのイメージは祭りの花火に限定される。そうではなく、僕らの日常を闇から救済する光としての役割を負わせるために、あえてローマ字表記を選択したのではないだろうか。あえて、「光」にせずに、「花火」という言葉を選んだのは、手を伸ばしても決して捕まえることができない、鮮やかに鮮烈に心に刻まれる刹那的な夏の花火のイメージとオーバーラップさせる効果も狙ってのものだろう。
「逢いたくなったときの分まで 寂しくなったときの分まで もう一回 もう一回 もう一回 もう一回 君を強く焼き付けたい」。
このフレーズには前半に見られる問いかけのような迷いはなく、むしろ断定的な強さすら持っている。高速道路のトンネルから外側に突き抜けるようなスピード感で、桜井は光の射す方向へ僕らを導いていく。だからこそ、そこに聞き手は鮮烈に「光」を体感することができるし、解放されるのだ。
この反復も絶妙だ。この4回の繰り返しを彼の声で歌われたら、聴き手はもはや桜井の虜になるしかない。



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