再びの宇多田ヒカル論ー「Letters」「Play ball」の2曲

またまた宇多田ヒカルの話。

アルバム「Deep River」は宇多田ヒカルの作品の中でも、気になる楽曲が多い。ある意味で彼女の到達点ともいえるアルバムだ。

その中で、「Letters」と「Play ball」は気になる2曲だった。
決して、メジャーではないが、「Letters」に関しては、邦楽史に残る個性的な楽曲ではないかと自分は思っている。この曲を聴いたことない人にはもしかしたら伝わりにくいのかもしれないが、そもそも音楽の通底にながれるコアな部分がまずもって日本的ではない。

あくまで自分が感受したイメージでしかないが、ざらついた感じとでも言おうか、どこか大陸的なのだ。海辺が歌詞に出てくるから尚更そう感じるのかもしれないが、乾いた大地に舞う砂ぼこりに自身が巻き込まれる感覚に襲われる。四季があり湿気の多い日本とは少し違う、異国の風情をこの楽曲から感じた。その海辺は日本ではないどこか遠い場所だ。

一篇の短編小説。それも海外の短編小説を読んだような感覚。はたまた、短編映画か。難解で何を伝えたいのか、分かるようで掴み切れない不思議な感触。何度聴いても、そのイメージが離れない。その意味で印象的な曲だ。

あえて例えるならば、村上春樹のような世界観がこの曲を支配しているように思う。

「プレイボール」の方は歌詞が秀逸。

ちょっと書き出すと、

「最高の防御は時に攻撃と言うでしょ」
「祭りの音が野生呼び覚ます」
「夏の終わりの気配漂う八月末 あきらめないで 全力尽くしてもダメだったらそれもまた風流」
「花火の色が横顔を染める 淋しい空が急に笑う きれいな星が帰り遅らせる」

全力尽くしてもダメな状況を「風流」で帰結させるところに宇多田の凄みを感じる。「だめだったらそれでいいじゃない」「しょうがないじゃない」という常套的な落とし方をしない。あえて風流という日本的なことばを選択することによって、敗残者を敗残者のままにせず一段高いところに昇華させている。これまた日本的な「甲子園」を連想させる曲名を重ね合わせて、日本人の美徳ともいえるような気高い精神性を歌いこんでいるように思う。

もちろん、「プレイボール」というのはメタファー(比喩)で、思いを寄せる異性への気持ちがその歌詞のテーマではあるのだが。

夏という季節をあえて選んだのも、きっとそういう思惑が働いたのではないかと思う。

そもそも、このアルバムタイトルである「Deep River」は和訳すると「深い河」。そして「深い河」といえば、遠藤周作の晩年の名作のタイトルでもある。彼女がそのことを意識したかどうかはわからないが・・・とここまで書いて、ネットで検索したら、このアルバムは遠藤周作の「深い河」にインスパイアされたものだと書かれていた。そして、公式Webサイトには好きな作家として遠藤周作が上げられ、中でも「海と毒薬」「沈黙」が好きな作品として挙げられているではないか。

宇多田は文学者だ。

公式Webサイトから拾ってみると、彼女の本好きは半端ではないことが分かる。

開高健 宮沢賢治(詩) 中上健次 芥川龍之介「羅生門」 川端康成 森鴎外「高瀬舟」 夏目漱石「こころ」「草枕」 三島由紀夫「金閣寺」 谷崎潤一郎 ヘッセ「シッダールタ」「幸福論」 ドストエフスキー「罪と罰」などなど。

好みの本が「読書玄人」だ。

趣味として読書を挙げ、「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう!! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服より本の占めるスペースが多い」と記している。

こういう読書を通じて培われた素養が彼女の楽曲にはいかんなく発揮されているように思う。

分かりやすい曲ばかりではない。時に難解な曲もある。その難解さが宇多田の楽曲の芸術性を高めているように思う。そして、その分かりにくさが、彼女の楽曲の魅力の一つを形成している。